阮籍「詠懐詩」に描かれる命 鄭月超(お茶の水女子大学大学院)
阮籍が残した八十二首からなる「詠懐詩」には、死に向き合う生命が多く詠み込まれている。「詠懐詩」中の生命観について、先行研究においては、古詩から阮籍、陶淵明に至るまで、表現技巧は異なるが、詠まれた生命に対する感情、感じ方はおおよそ同じである、というのが主な見解である。例えば、銭志熙氏はその著書『唐前生命観和文学生命主題』(東方出版社、1997)において「詠懐詩」中の生命観、あるいは生命の無常について以下のように述べている。
首先,我?从?八十二首?中看到,阮籍?生命的基本体?完全是悲?性的(p263)。
(中略)阮籍体?生命悲?性的主要方式仍然是??的盛衰?。?人的所有表?意
?,似乎都指向?一点,即?示生命由盛到衰、由美到丑、由老到死的必然?律
(p265)。(中略)?于?人来?,他的最主要的?作不在于思想主?的?加,而在
于?言意象的?新(p266)。
古詩に見える生命短促への嘆きは、建安詩または「詠懐詩」に代表される正始時代の詩にもたしかに見て取ることができる。しかし一方で、従前の詩には明確に現れていない生命のとらえ方が「詠懐詩」に見出されることに注視したい。それまでの詩は生を一瞬にすぎさるものととらえて詠うことが中心であったため、生と死という二つの要素だけが突出して意識されていた。これに対し「詠懐詩」では、生から少しずつ死に変化していく過程が詠み込まれているのである。こうした生と死の描き方は阮籍詩に独特であるといえる。
「詠懐詩」の考察を通して、漢魏から晋にかけての詩に描かれた生命観の細やかな変化を捉えるのが本発表の目的である。
陶淵明「讀山海経」詩の連作的構造−超越と回帰− 加藤文彬(筑波大学大学院)
「讀山海経」詩十三首は、陶淵明詩中で「飲酒」詩二十首につぐ長編の連作詩である。しかし従来の陶淵明研究に於いては中心的地位を占めるに至っておらず、また、一連の連作詩として論じられることもわずかであった。「讀山海経」詩をめぐる従来の研究は、おおむね其九以後、すなわち後半の詩群の持つ寓意性に着目するものであった。では、第一首の終聯で「俯仰終宇宙、不楽復何如(俯仰して宇宙を終くす、楽しからずして復た何如)」と述べ、「終宇宙」によって獲得される「楽」しみを提示した淵明は、如何にして現実に対峙することへと向かうのか。
本発表は、「讀山海経」詩十三首を其一から其十三までの流れを有する、一連の連作詩として考察することを通じ、其一で「俯仰終宇宙、不楽複何如」とした陶淵明が、対峙する現実からの超越を志向していたこと、そしてその超越が、連作詩としての構造の中で、どのようにして現実へと回帰していくのかということについて検討するものである。
陶淵明「孟府君伝」に関する考察 大立智砂子(明治薬科大学非常勤講師)
陶淵明「晉故征西大將軍長史孟府君傳」(以下「孟府君伝」)は、母方の祖父孟嘉の伝である。孟嘉の伝は、現在、陶淵明別集に見る「孟府君伝」と、王隱『晋書』引『孟嘉傳』、『世説新語』、『晋書』等にも見ることができるが、陶淵明のものが最も詳細である。陶淵明「孟府君伝」と、それ以外の孟嘉の伝を比較し、陶淵明「孟府君伝」の持つ文学性と、孟嘉に対する敬愛の念を明らかにしてゆきたい。
六朝の総集における先秦両漢の「作品」について 谷口洋(奈良女子大学)
発表者は、当学会例会において「漢代の賦の序について」と題して報告してより、『東方学』および『六朝学術学会報』に論考を発表してきた。そこでは、前漢までの「作品」が、「作者」とは無関係に、後人の語る物語の中で伝承される曖昧な存在であったのに対し、揚雄の「自序」以降、作者が自作に説明を加え意識して後世に伝えることが始まり、建安以降の別集の盛行がそれを促進したことを指摘した。
しかし、それによって「作者」と「作品」をめぐる曖昧さが解消したわけでは全くない。前漢までの「作品」が、今日われわれが見るような形になるには、六朝人によって集の中に編成される必要があったし、魏晋以降にも、後人の伝説の中で育まれた「作品」はいくらでも存在する。ここではさしあたり前者の問題について、宋玉賦、司馬相如「長門賦」、李陵蘇武詩などを例に考える。これらはこれまでもっぱらその「真偽」が論じられてきたが、それらを今見る「作品」としての形に仕立て上げたのが六朝人である以上、六朝文学の問題としてとらえ直すことが必要なのである。