●六朝学術学会 第35回例会 発表要旨
(2017年12月2日(土) 於:二松学舎大学)


①「王延寿「魯霊光殿賦」における彫刻描写」
木村 真理子(東北大学大学院)

 王延寿(一四三頃~一六三頃)「魯霊光殿賦」は、『文選』巻一一に収められており、劉勰(四六五頃~五二〇頃)『文心雕龍』巻二・詮賦において、「延寿の霊光、飛動の勢を含む」(延寿靈光、含飛動之勢)と評価される、六朝期以前の宮殿賦の代表作である。
 作品内には彫刻を描写した段があり、序と乱を除いて、全一一二四文字のうち二〇七字が費やされる。従来の賦の宮殿描写には、彫刻を描写した部分がほとんどないため、彫刻描写は、「魯霊光殿賦」の特徴の一つと言えよう。
 先行研究では、劉勰の「飛動の勢」という評価を踏まえて、彫刻描写の躍動性が注目されている。「飛動の勢を含む」という言葉は、興膳宏氏の訳によれば、「今にも動き出さんばかりの気勢をはらんでいる」である。たしかに、彫刻描写では多くの動物の彫刻が躍動的に描かれており、その点には「飛動の勢」が認められよう。
 しかし、彫刻描写は、必ずしも躍動的な描写ばかりで埋め尽くされているとは言えない。たとえば、「胡人」の像は、悲しげな表情をして、静かに座っており、「神仙」「玉女」の像は、実体がなく、動作が強調されない。王延寿は、それら「胡人」「神仙」「玉女」の彫刻には、何聯をも費やして表情を詳細に描写する。その描写から感じられるのは、躍動というよりも、一種の停滞である。そしてその停滞感の要因の一つが、「𪃨顤顟として睽睢」(𪃨顤顟而睽睢)における「𪃨顤顟」、「憯嚬蹙として悴を含む」(憯嚬蹙而含悴)における「憯嚬蹙」、「忽瞟眇として以て響像」(忽瞟眇以響像)における「忽瞟眇」のような、三字の形状語であると考える。
 「飛動の勢を含む」という評価の中で、これらの静かな彫刻描写はどのような意味を持つのか。絵画において余白が重視されるように、賦にも、躍動的表現だけでなく、静かな停滞的表現があることによって、躍動的部分が際立っているのではないだろうか。本発表は、躍動的な彫刻描写だけでなく、停滞的な彫刻描写にも焦点を当て、彫刻描写を分析する。



②「南朝斉梁「率爾」詩考」
大村 和人(高崎経済大学) 

 南朝斉梁時代の艶詩(以下、斉梁艶詩と略す)の特徴の一つとしてしばしば「遊戯」性が挙げられ、それらの詩歌群が厳しく批判される原因となっている。しかし、斉梁艶詩の「遊戯」性の実質についてはまだ研究の余地が残されている。本発表では、斉梁時代の「遊戯」的艶詩の中で、「率爾」という語を題名に持つ作品を取り上げる。
 「率爾」という語は相手の働きかけに対してすぐに反応したという意味で「即座に」等と訳され、一般的に「率爾」詩とは即興詩であると理解されている。現存作品の中で「率爾」という語が題名に含まれる最初期のものは沈約の「三月三日率爾成篇」だが、同様の題名を持つ「率爾」詩としてこの他に梁・蕭綱のものがある。周知の如く、三月三日の行事と言えば中国の伝統的な年中行事の一つである。蕭綱と沈約の三月三日「率爾」詩はこの行事だけでなく、多くの句を費やして女性も描かれ、艶詩と見なすこともできる。そしてこの「率爾」詩は蕭綱の文学集団で集中的に制作された。
 梁・劉勰の『文心雕龍』「神思篇」では、作品制作の遅速を「作者の個性の相違」と捉えており、「作者の才能や作品の内容の優劣」に結びつけてはいない。この劉勰の言説に基づき、更に一歩進めて考えれば、「率爾」詩が「率爾」に制作されたことによって、作品に作者の詩風が端無くも表われているのではないかという仮説を立てることができよう。更に言えば、「率爾」詩に共通する特徴が見られれば、それは蕭綱の文学集団の詩風の特徴の一つと見做すことができよう。これらの問題意識に基づいて本研究はこれらの作品に見られる特徴そのものを探りたい。具体的には、まず蕭綱の三月三日「率爾」詩を取り上げて分析し、彼の三月三日の公讌詩や他の「率爾」詩および他の艶詩と比較することにより、「率爾」詩の特徴を多面的に考察し、斉梁艶詩、中でも蕭綱の文学集団の詩風の一端を再検討する手がかりを得たい。



③「「史」の文学性―范曄の『後漢書』」
渡邉義浩(早稲田大学) 

 劉勰が『文心雕龍』史伝篇に史書を論じ、蕭統が『文選』序に、「其の讃・論の辞采を綜緝し、序・述の文華を錯比するが若きは、事は沈思より出で、義は翰藻に帰す。故に夫の篇什と与に、雑へて之を集む(若其讃・論之綜緝辞采、序・述之錯比文華、事出於沈思、義帰乎翰藻。故与夫篇什、雑而集之)」と述べ、「史」の中でも「讃・論」「序・述」を『文選』に収録したように、南朝では「史」の文学性が意識されていた。事実を正確に記録するよりも、いかに表現するのかに力点が置かれているのである。
 したがって、内藤湖南が「原文をいくらか書き改めるやり方は、范曄の後漢書から始まる。……范曄の如き人は自分が名文家であるところから、なるべく己れの歴史を名文に仕上げようとする所から書き改めた」と批判することは、正確であることを至上とする近代歴史学の視座からの外在的批判に過ぎない。范曄が文章を改めた必然性は、范曄の理想とする史書の表現方法から検討しなければなるまい。本報告は、「獄中より諸甥姪に与ふる書」を手がかりに、范曄の『後漢書』の文学性を追究するものである。