●六朝学術学会 第38回例会 研究発表 要旨
(2019年3月10日日曜日 於:青山学院大学)


①「辛彦之の没年をめぐる一考察」
池田 恭哉(京都大学)

 辛彦之は北周から隋にかけて生きた人物であり、その伝は『隋書』巻75・儒林伝に立てられる。そこには彼が開皇11年(591)に没した旨が述べられており、没年は難なく確定できるかの如くである。だが実は、『隋書』礼儀志を読んでいると、開皇13年や14年になされた明堂や封禅をめぐる議論の中に、なお辛彦之が参与者として名を連ねているのである。特に開皇13年の例について、辛彦之は牛弘とともに明堂の建造を議論したとあるのだが、その内容が『隋書』巻49・牛弘伝では開皇3年になされたものとして詳述されていることから、礼儀志の開皇13年は開皇3年の誤りとする論説も存する。ただ礼儀志の当該記事の前後を合わせて読み、時系列の面から考えたとき、簡単に13年を3年に改めてしまってよいものか、疑問なしとしない。加えて牛弘伝と礼儀志の間でも、互いに互いを参照するように求め、しかもそれがどういう対応関係にあるのか判然としない部分が見受けられるなど、かなり情報が錯綜してしまっているのである。
 率直に言って、現在の『隋書』の記載をそのまま全面的に受け入れて、辛彦之の没年を矛盾なく一つに確定することは難しいと考える。本発表では、まず『隋書』という史料の性格を踏まえつつ、その中で情報が錯綜する上記の状況を整理したい。その上で、そうした状況を如何に理解すればいいのかについて、その可能性をいくつか提示できればと思う。



②「庾信と宋玉 典故・用語による賦の分析」
中澤 仁(二松學舍大学大学院)

 今回の発表では、庾信の賦を中心に典故や用語の面から分析し、作品の成立時期と作風の特徴、さらに六朝後期から初唐の賦の発展の中で庾信がどのような存在か、『楚辞』の翻案作がどう変化したのかを、騒体の作が多い蕭繹・盧照鄰と比較して論じる。
 初唐末期の張説の詩「過庾信宅」に「庾信は宋玉を追う」とあり、庾信は宋玉に影響を受けたことが語られるが、明清の諸家は宋玉の影響を重視せず、庾信にも騒体の作品が無いことから、一見すると庾信は宋玉と無関係に見える。
 また、庾信は従来、南朝期と北朝期の二つで考えられたが、代表作とされる賦や「擬詠懐詩」「擬連珠」を読むと、典故や語彙の出現に偏りがあり、それによって以下のように分けられ、北遷後は宋玉の語彙を多用している。

 南朝期:~553年(~41才)
  「春賦」「鏡賦」「鐙賦」「対燭賦」等、「花」字を多用する
 北朝第一期:553年(41才)から数年
  「枯樹賦」「竹杖賦」「小園賦」「傷心賦」等、宋玉「九辯」の語彙や「生民」
  「大盗」「天造」風関連の語などが導入される
 北朝第二期:557年(45才)前後
  「擬詠懐詩」「擬連珠」「哀江南賦」等、南朝期の語彙を封印して新しい典故を
  多く取り入れる
 北朝第三期:560年代(50代)以降
  趙王招、滕王逌との贈答作に北遷第二期までの表現が自己引用される

 今回は北朝第一期の作品を例にする。北遷後の庾信は宋玉「九辯」に見える「揺落」「變衰」「悽愴」「羇旅」などの語を多用して、草木を萎れさせる風霜の中に人間も放り出され、南朝期の綺艶な「花」は「揺落」「變衰」して人は「悽愴」と悲しむという世界観を作った点で、初唐に通じる表現を多く生み出すも、宋玉と同様に秋を詠むことに留まった蕭繹には無い独自性がある。さらに『楚辞』を引用・翻案して『楚辞』の形から外れた作品を作る点では初唐の盧照鄰「釈疾文」等にも通じ、その点に於いて庾信は初唐の先駆である。



③「徐陵の文学について」
安藤 信廣(東京女子大学名誉教授)

 徐陵(507-583)は、梁から陳にかけて、六朝末期の時代を生きた文人として知られる。同時に、南朝の最後の一時期を支えた政治家でもある。現存する彼の作品から見る限り、前半生には、詩、楽府などの韻文が多く、後半生には、書、表、詔などの散文が多いと言える。そこには、現実社会に対する姿勢の変化など、種々の原因があったことが予想できる。その全体についての見通しを述べる用意はまだ無いが、前半生の韻文を中心に、徐陵とその周辺の文学活動、及び徐陵の文学意識の一端について、検討したい。