●六朝学術学会 第39回例会 研究発表 要旨
(2019年12月21日(土曜日)於:亜細亜大学)


①「六朝隋唐における禅譲中の即位儀礼について――即位場所・告代祭天を手がかりに――」
柴 棟(東北大学大学院)

 六朝隋唐時期の王朝交替は主に「禅譲」という方式によって行われ、王朝交替を正当化するために、これと組み合わせた諸々の儀礼制度が生まれた。これらの制度の中には、後世王朝が守るべき唯一の基準として踏襲されたものがあり、制度の発展変化と政治の必要とに応じて変更されたものもある。数多の禅譲儀礼の中で、即位儀礼が極めて重要であって、新王朝の皇帝権力に直接関わる正統性と権威性を備えたものと言える。六朝の禅譲における新王朝の開国の君主らは通常に南郊(或は壇を築く)で皇帝位について、そのうえ皇帝自ら天を祭る。後の隋唐王朝の創建者らは宮殿の中で皇帝位について、しかも皇帝自ら天を祭るのではなく、有司が派遣され天を祭る。この変化については少数の研究者が言及したが、なお異なる視点から検討する余地がある。
 そこで本発表では、まず、六朝隋唐における禅譲中の即位場所の淵源に遡って確認する。次に、上述した即位場所の変化について、その具体相を考察する。さらに、告代祭天の実行者を整理した上で、その役割を分析する。以上の検討を通じて、六朝隋唐における禅譲中の即位儀礼に現れた変化の背景を明らかにしたい。



②「陶淵明の詩文における、自詠の姿について」
大立 智砂子(明治薬科大学)

 昭明太子は、かつて「余は素より其の文を愛し、手を釋(はな)す能わず。尚お其の德を想い、恨むらくは時を同じくせざるを」といい、鍾嶸『詩品』は、「其の文を観る毎に、其の人徳を想う」と言っており、古来、陶淵明という人物と作品は特に深く関わってきた。この発表では、陶淵明が実際にどのような人物であったかではなく、彼の作品のどのような表現技法が、読者をして、作品と作者像を結び付けているのかという点に着目して、考察を行う。
 自己を詠じているのが最も分かり易い表現は、一人称「我」「吾」を使用したものである。これらは、すでに「陶淵明の仮託詩における一人称表現」で述べたので、今回は、「吾」「我」を使用せず、しかし陶淵明の思想・感情が投影されていると思われる表現を取り上げる。
 陶淵明作品には、植物や器物に自身が投影されていると思われるものが多数見られる。例えば、蘭の花が「香りを含んで清風を待つ」。作者にとって蘭は他者であり、その中に香を含んでいるかどうかは、本当は蘭自身にしか分からない。また蘭が、風を「待っている」かどうか、分かろうはずがない。蘭が「含み持つ」「待って」いると詠じるのは、作者が一旦、蘭に成り代わり、蘭の視点から詠んでいると考えられる。そこには、陶淵明の主観が流入しており、読者が思い描く蘭には、半透明な陶淵明の影を伴ったものである。同様に、陶淵明の『帰鳥』詩は、終始、動詞による鳥への同一化が行われた作品といえる。「伴を顧みて相鳴き」等の句には、一人称は使用されないが、作者が鳥の視点から詠じている。
 陶淵明作品の巧みなところは、自分でない他者を描く時、「顧みる」「求める」「待つ」等の動詞により、他者への同一化を行っている点である。これらを効果的に使用し、陶淵明は他者を描きつつ、自分の心を描いていたのである。こうした表現が、作品と作者の人物像を結び付けてきた一因ではなかろうか。




③「『文選』以後の詩文と『万葉集』」
安藤 信廣(東京女子大学名誉教授)

 『万葉集』の歌の作者たちが、早くから中国の典籍を学んでいたことは、今日では広く知られている。しばしば『万葉集』の第一期とされる舒明天皇元年(629)から壬申の乱(672)までの時期は、既に『懐風藻』の初期の作家が登場した時期と重なる以上、それは当然予想されることであった。ことに中国文学との関係に注意した学者は、江戸前期の契沖(1640―1701)だったが、近年になって、そのことを本格的に問題にして膨大な調査・研究をおこなったのは、小島憲之『上代日本文學と中國文學』上・中・下(1962年)だった。また、それをさらに進めたのは、芳賀紀雄『萬葉集における中国文学の受容』(2003年)である。こうした研究によって、『万葉集』と中国文学との関わりは、今ではその実態が次第に明らかになってきている。
 現在の『万葉集』研究に裨益し得ることを何ほども持たないが、次の点については、多少つけ加えることができよう。『万葉集』の歌人たちにとって、儒教の経書、仏教の経典、史書、文学選集の『文選』などは重要な存在として意識されていたことは確かだろうが、『文選』以後の詩文についても相当の注意をはらっていたと考えられる点である。宮体詩への注目があったことは知られているが、宮体詩以外の詩文への注目もあったと考えられることを、今回は指摘したい。また、初唐詩への関心があったことも知られているが、今回はそこまで時代を下らせることはできないので、主に六世紀後半に活動した、陳の徐陵(507-583)と北周の庾信(513-581)等を中心に、『万葉集』との関わりを検討したい。
『万葉集』の歌人たちの中で、特に中国文学との関わりの強い歌人とされるのは、大伴旅人(665-731)、山上憶良(660-733)、大伴家持(718-785)等である。これらの歌人が、どのように六世紀後半の中国文学を受容したか、逆に六世紀後半の中国文学に、受容され得るどのような側面があったのか、それを検討する。