●六朝学術学会 第40回例会 研究発表 要旨
(2020年3月19日(木曜日)於:青山学院大学)
①「江淹の仙界遊行――「丹沙可學賦」の考察――」
冨田 絵美(早稲田大学大学院)
江淹は五世紀半ばに生まれ、寒門ながら優れた文才と鋭い政局判断で劉宋・南齊・梁に仕えた。彼の詩賦中に神仙思想に対する興味がしばしば表れていることは、先行研究でも指摘されている。ただし、彼の神仙思想は、単に教養的・非日常的に受容されたものに過ぎないと評されることもある。本発表では、江淹の著作のうち、神仙思想を主題とするものの一つである「丹沙可學賦」を主に扱う。そこから、江淹の神仙思想はどのようなものか、神仙思想は彼にとっていかなる意味を持っていたのかを明らかにしたい。
「丹沙可學賦」を見ると、『楚辭』遠遊と似た構成を持ち、典型的な遊仙文学の要素を備えていることが分かる。この賦には人間世界・名山世界・神仙世界という三層構造が明示されており、このうち特に神仙世界の描写の中に、『楚辭』的世界観が強く示されている。
また、「丹沙可學賦」に描かれる名山世界には、郭璞からの大きな影響が認められる。この賦において名山世界は、神仙世界と連なり、『山海經』的な神秘性や永遠性を内包する場所である。そして、神仙世界へ到るために隠逸し、神仙術を実践する場所でもある。こうした描写は、郭璞「遊仙」と共通する。ただし江淹は、郭璞「遊仙」の持つ詠懐性を排除し、神仙世界への到達と名山における実践について、郭璞に比べてより強い確信を述べている。
江淹のこのような神仙可學説は、彼の自序や書簡の中にも見られる。彼はそこで、神仙思想について、自分の現実世界における信仰や実践に言及している。そこには同時に、自身の隠逸や理想的生き方について、嵆康を模擬しながら書き記そうとする態度が見受けられる。江淹が「丹沙可學賦」を著わし、神仙可學説を表明した背景には、嵆康の生き方を、神仙術の信仰や実践を含めて模擬しようとしたことがあるのではないか。
②「石上乙麻呂「秋夜閨情」について―閨怨詩と六朝・初唐期の文学から読み解く―」
住谷 孝之(愛知淑徳大学)
石上乙麻呂(?―750)は、奈良時代の日本の貴族・文人である。古代日本の有力氏族であった物部氏を祖とし、奈良時代初期に当時人臣最高位の左大臣となった石上麻呂(640―714)を父に持つなど、名門の貴公子として生まれた。そのような恵まれた出自の上に、風采もすぐれ、学問・文才にも秀でていた彼は、奈良朝の官界でも順調に出世を遂げていた。ところが、天平11年(739)、藤原宇合の未亡人であった久米若女(くめのわかめ。「久米若売」とも)と密通したという罪に問われて、彼は土佐国に流されることとなった(『続日本紀』巻十三。久米若女は下総国に流罪)。この時乙麻呂が詠んだとされる歌三首は『万葉集』巻六に収録され、また配流先の土佐での想いをうたった漢詩は、『銜悲藻』二巻(散逸)にまとめられ、そのうちの四首が、現存する日本最古の漢詩集『懐風藻』に収められている。
この中の一首に「秋夜閨情」という詩がある。従来の『懐風藻』の訳注書や乙麻呂の漢詩を論じた先行研究は、いずれもこの詩を先述の久米若女との事件に絡めて、「配流先の土佐にいた詩人が、久米若女を想って詠んだ詩」であると解釈してきた。しかしながらこのような解釈は、中国古典詩(漢詩)における「閨情・閨怨」を主題とする詩「閨怨詩」の性質上あり得ないものであると発表者は考える。本発表は、従来の解釈が軽視してきた閨怨詩の様式や六朝・初唐期の中国古典詩の実態に即して、「秋夜閨情」という詩を解釈し直そうとするものである。
『懐風藻』をはじめ、日本上代文学の研究に中国文学の理解が不可欠であることは従来から指摘されてきたことであるが、今回の発表では、改めて六朝・初唐期の中国文学に関する現在の研究成果が、これら日本上代文学の研究において極めて有意義であることを示しておきたい。
③「曹植の二篇の「薤露」歌辞について」
柳川 順子(県立広島大学)
曹魏王朝の宮廷歌曲群「相和」の中に、曹操の歌辞による「薤露」と題する歌がある。「薤露」はもともと先秦時代から伝わる葬送歌で、元来は同じ「相和」中の一曲「蒿里」と併せてひとつであったものが、前漢武帝期の協律都尉、李延年によって、王公・貴人を送る「薤露」と、士大夫・庶民を送る「蒿里」とに分けられた。そして、宮中で歌われていたと推定されるこれらの挽歌は、後漢時代に入ると、外戚ら貴顕の催す宴席でも歌われるようになっていった。こうした流れを汲んで出来たのが、曹操による新歌辞、すなわち、滅びゆく漢王朝を弔う「薤露・惟漢二十二世」と、漢末の動乱に散った将軍や兵士たちを悼む「蒿里行・関東有義士」とである。これらの替え歌は、他の「相和」諸曲とともに、曹操の死後、漢の禅譲を受けて成立した魏王朝の宮中で演奏された。
さて、曹操の息子、曹植にも二篇の「薤露」歌辞が伝わっている。一篇は、父の「薤露」と同じ句数を持つ「薤露行」、もう一篇は、それが父の「薤露・惟漢二十二世」を意識したものであることを題目に明示する「惟漢行」である。両歌辞は、その題目からのみならず、歌い起しの類似性からも、作者自身によってひとつながりの作品と意識されていた可能性が高いと判断される。では、同じ歌曲に対して、曹植はなぜこのように重ねて歌辞を寄せたのだろうか。
本発表では、作品の精読と、その時代背景を史書に探ることとを通して、まず「薤露行」「惟漢行」の成立時期を推定する。これらの歌辞は、曹植を取り巻いていた現実との関係性抜きには、的確に読み解くことができないと考えるからである。その上で、父曹操の「薤露」を視野に入れて、曹植が「薤露」の歌辞を重ねて作った理由を考察したい。このことは、曹魏王朝の内実を、文学作品という史料から照らし出すことにもなるだろう。