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長谷川 隆一(早稲田大学大学院)
後漢の最末期を生きた徐幹は、建安の七子として高名である。ただ、彼には魏の文帝曹丕に、「中論二十余篇を著し、一家の言を成す。辞義典雅にして、後に伝ふるに足る。此の子不朽たり」と評価された『中論』という著作も存在する。その『中論』に対し、先行研究は、有能の士を虚名に惑わされず実質的に登用することの重要性を説き、賞罰を道徳から独立させる必要性を論じることから、彼の主張する賢人登用は、賞罰を中才に果敢に施行するための布石である、としたり、賢人修養の重要性について述べた上で、徐幹の思想的価値として、「才智の徳行に対する優位を主張し、技芸を君子の業として一定の評価を与える人間観」をあげる。さらに、徐幹が曹丕に評価されたということを重視し、上に述べた賞罰論や阿党比周を批判した態度は、曹操の政策を理論化・抽象化したもの、という見解も存在する。基本的にこれらの見解は支持されるものであると考えられるが、『中論』全体に通底し、有機的に連関していると考えられる「名実論」への論及はあまりなされていない。そもそも、徐幹は物事を二項対立によって捉え、そのどちらかに重心を置いて自身の見解を語る傾向がある。そのため、物事を「名」と「実」とに区分する「名実論」とは親和性が高く、多用されている。また、それを踏まえた上で徐幹の立場性と「現実」との結びつきについても検討の余地がると思われる。ゆえに、本報告では、徐幹の「名実論」との結びつきが非常に強いと考えられる「賢人論」を中心として、『中論』に見える思想を検討していく。さすれば、徐幹の思想の一端を理解することができ、後漢の最末期という非常に微妙な時代を生きた彼がどのように位置づくのか明らかになろう。
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以前拙論で中国文学における井戸の諸相を論じた。その際気付いたのは、井戸を舞台に髪飾りーーかんざしーーがしばしば詠じられていることである。本発表では、詠題詩であり、「井戸を舞台にかんざしを落とす」様を初めて詠じた梁・湯僧済「詠渫井得金釵」を検討する。
井戸が詩歌に登場する場合、その多くは、元の住まいを訪れその荒廃ぶりを嘆く、あるいは、遠くにいる人を思いながら水を汲む、落瓶や轆轤のきしりに恋人の心変わりを予測するというような、女性の愁いや不安が詠われていた。詩歌における井戸は、喜びや幸福感といった感情とは結びつきにくいのである。
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本発表は、このような流れの中で、梁・湯僧済「詠渫井得金釵」がどのような構造をもち、どのようにして六朝文学の主題のひとつとして成立したのかを探るものである。
なお唐代には「かんざしが落ちる、壊れる詩」は一旦数を減らすものの、張籍、王建、白居易らによって発展・新たなモチーフ化が進んでいる。本発表では、湯僧済「詠渫井得金釵」後の展開についても言及したい。
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栗山 雅央(九州大学研究員)
注釈とは、読者がその対象となる文章の理解を目指した際、まず参照しようとするものである。しかしながら、これはただ作品を読解するためだけに利用されるべきものではない。そこには注釈そのものが内包するものとして、作者が作品創作時に参考とした資料の傾向、或いはそれらを知識としてどのように集積したかなど、様々な情報を読み取ることができるように思われる。つまり、ここからは賦の読解だけでなく、賦の創作状況についても有益な情報を獲得することができるのである。
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④「体系への憧れ 沈約が希求したもの」
稀代 麻也子(筑波大学)
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『宋書』の謝霊運伝には「山居賦」が自注を伴って引用されており、また、沈約は「史臣曰」条を使って「文学論」を開陳した。沈約は劉勰の『文心雕龍』を高く評価した。沈約には晩年、梁の武帝との不和を示す話柄が残る。
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⑤「六朝期の詩歌認識について―「詩」と「歌」の間―」
佐藤 大志(広島大学)
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では、三国期から六朝期にかけて、詩は既に口頭で歌われるよりもむしろ、筆で書きとめられるものとみなされていたのであろうか。もしそうであれば、そのことは六朝期の詩人たちの詩歌観や彼らの詩歌制作にどのような形で投影されているのであろうか。
このたびの発表では、魏晋六朝期の詩文における「詩」や「歌」に関する語句の分析を通して、当時の知識人たちが「詩」や「歌」を作るという行為をどのようものとみなしていたのか、またそこに「詩」と「歌」との間のどのような関係が見えてくるのかということについて考えてみたい。
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『文選』には、あるテーマを論ずる文体として、「設論」・「史論」・「論」という三種を、巻を分けて載せる。このうち巻四十五「設論」には、東方朔「答客難」・楊雄「解嘲」・班固「答賓戯」を並べ、明らかに「史論」「論」と区別している。
「設論」に並ぶこの三篇は、対問の流れの中にあり、それぞれ「客」「賓」の批判に対して「主」が答える形を取る。これらは自問自答を「仮構(フィクション化)」することで、自己の思想を立体的に組み立てる構造となっており、一見「自慰」「自嘲」の表現のように見えながら、逆説的に強い自己主張に成功している。
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下定 雅弘(岡山大学名誉教授)
杜甫はリアリストである。既成観念の「隠逸」「隠士」などの眼で、淵明を見ていない。生涯の各時期に自らの境遇と重ね合わせつつ、淵明の人生と詩の核心を掴んだ詩を詠じている。
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成都での作「遭田父泥飲美嚴中丞」に、「指揮過無禮、未覺村野醜。月出遮我留、仍嗔問升斗」と詠うのは、田舎親父に強く酒を勧められるのに閉口しつつも、その様子をほほえましく描いている。淵明が農民と飲む喜びを詠った詩が杜甫の脳裏にある。また「可惜」に「寬心應是酒、遣興莫過詩。此意陶潛解、吾生後汝期」(「可惜」)というのは、淵明の生き方を全く自分のそれに重ねている。
最晩年杜甫はしばしば故郷に帰った淵明を思う。大暦二年秋、五十六歳の作「復愁十二首」其四に「身覺省郎在、家須農事歸。年深荒草徑、老恐失柴扉」とあるのは、「歸去來兮辭」を意識し、「帰田」を果たした淵明への羨望の念をこめて詠っている。
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大上 正美(青山学院大学名誉教授)
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