●六朝学術学会 第21回大会 研究発表 要旨
(平成29年6月17日(土) 於:二松学舎大学)
①「徐幹の賢人論―「名実論」を媒介として―」
長谷川 隆一(早稲田大学大学院)
後漢の最末期を生きた徐幹は、建安の七子として高名である。ただ、彼には魏の文帝曹丕に、「中論二十余篇を著し、一家の言を成す。辞義典雅にして、後に伝ふるに足る。此の子不朽たり」と評価された『中論』という著作も存在する。その『中論』に対し、先行研究は、有能の士を虚名に惑わされず実質的に登用することの重要性を説き、賞罰を道徳から独立させる必要性を論じることから、彼の主張する賢人登用は、賞罰を中才に果敢に施行するための布石である、としたり、賢人修養の重要性について述べた上で、徐幹の思想的価値として、「才智の徳行に対する優位を主張し、技芸を君子の業として一定の評価を与える人間観」をあげる。さらに、徐幹が曹丕に評価されたということを重視し、上に述べた賞罰論や阿党比周を批判した態度は、曹操の政策を理論化・抽象化したもの、という見解も存在する。基本的にこれらの見解は支持されるものであると考えられるが、『中論』全体に通底し、有機的に連関していると考えられる「名実論」への論及はあまりなされていない。そもそも、徐幹は物事を二項対立によって捉え、そのどちらかに重心を置いて自身の見解を語る傾向がある。そのため、物事を「名」と「実」とに区分する「名実論」とは親和性が高く、多用されている。また、それを踏まえた上で徐幹の立場性と「現実」との結びつきについても検討の余地がると思われる。ゆえに、本報告では、徐幹の「名実論」との結びつきが非常に強いと考えられる「賢人論」を中心として、『中論』に見える思想を検討していく。さすれば、徐幹の思想の一端を理解することができ、後漢の最末期という非常に微妙な時代を生きた彼がどのように位置づくのか明らかになろう。
②「湯僧済「詠渫井得金釵」の問題点」
山崎 藍(明星大学)
以前拙論で中国文学における井戸の諸相を論じた。その際気付いたのは、井戸を舞台に髪飾りーーかんざしーーがしばしば詠じられていることである。本発表では、詠題詩であり、「井戸を舞台にかんざしを落とす」様を初めて詠じた梁・湯僧済「詠渫井得金釵」を検討する。
井戸が詩歌に登場する場合、その多くは、元の住まいを訪れその荒廃ぶりを嘆く、あるいは、遠くにいる人を思いながら水を汲む、落瓶や轆轤のきしりに恋人の心変わりを予測するというような、女性の愁いや不安が詠われていた。詩歌における井戸は、喜びや幸福感といった感情とは結びつきにくいのである。
また、かんざしは、『北堂書鈔』巻一二七「夢書云。簪為身、簪者己之尊也。夢着好簪身歓喜也。」などにみられるように、己自身を象徴するものと考える民俗的意識があった。六朝時代になると、かんざしが「落ちる」「壊れる」「折れる」といった動きと結びついて、詩に詠われるようになる。それは単なる情景ではなく、男性の心変わりや不在、将来への不安を暗示するという新たな表現となっていく。
本発表は、このような流れの中で、梁・湯僧済「詠渫井得金釵」がどのような構造をもち、どのようにして六朝文学の主題のひとつとして成立したのかを探るものである。
なお唐代には「かんざしが落ちる、壊れる詩」は一旦数を減らすものの、張籍、王建、白居易らによって発展・新たなモチーフ化が進んでいる。本発表では、湯僧済「詠渫井得金釵」後の展開についても言及したい。
③「「幽通賦」諸注釈より見る後漢初期の賦創作について」
栗山 雅央(九州大学研究員)
注釈とは、読者がその対象となる文章の理解を目指した際、まず参照しようとするものである。しかしながら、これはただ作品を読解するためだけに利用されるべきものではない。そこには注釈そのものが内包するものとして、作者が作品創作時に参考とした資料の傾向、或いはそれらを知識としてどのように集積したかなど、様々な情報を読み取ることができるように思われる。つまり、ここからは賦の読解だけでなく、賦の創作状況についても有益な情報を獲得することができるのである。
本発表では、後漢の班固による「幽通賦」を主な考察対象として取り上げたい。その理由は、後漢初期の作品であるにも関わらず、注釈が施された時代・班固との関係性・注釈内容などの面で、多様な注釈が現存している点に求められる。まず、賦に対する注釈、所謂「賦注」の最古の例として、該賦に対する班固の妹である班昭(曹大家)による注釈が遺されている。この注釈については、近年中国で注釈方式や辞賦注釈史上の意義が論じられている。ついで「幽通賦」は『文選』にも収められており、これには当然のこととして李善注が施されている。また、該賦が『漢書』にも採られるため、『漢書』諸注釈の中で注釈されている。
これらの注釈を仔細に眺めることで、幾つかの事実を確認することができる。例えば、書物の引用方法において、曹大家注と李善注とでは明らかな相違を見出すことができるが、これはそれぞれの時代における書物への依存度の差によるものと思われる。また李善注の引用状況に基づけば、班固が依拠した書物の傾向と、彼がどのような内容において書物に拠ろうとしたかが看て取れる。このように、本発表はこれら「幽通賦」に施された諸注釈を分析することで、班固が該賦を如何に創作したかという、後漢初期における賦創作の一端に迫りたいと考えている。
④「体系への憧れ 沈約が希求したもの」
稀代 麻也子(筑波大学)
南朝の宋・斉・梁三代を生き抜き、『宋書』を編纂し、斉の竟陵八友として活躍し、梁朝建国に深くかかわった沈約[441-513]がもっていた憧憬はどのようなものだったのか。本発表では、沈約を語る際に言及されることの多い3点を取り上げ、それらの背後にあり得べき沈約の目線を想定し、考察する。
『宋書』の謝霊運伝には「山居賦」が自注を伴って引用されており、また、沈約は「史臣曰」条を使って「文学論」を開陳した。沈約は劉勰の『文心雕龍』を高く評価した。沈約には晩年、梁の武帝との不和を示す話柄が残る。
謝霊運に対する高い評価は、「山居賦」に結晶する謝霊運の体系性によるものではなかったか、という視点から考察する。劉勰『文心雕龍』に対する高い評価についても、『文心雕龍』がもつ体系性が沈約を興奮させた、という側面から考察する。梁の武帝との不和については、沈約の功名心が原因であるという第三者的目線から考えるのではなく、沈約が欲する体系を武帝が理解しようとしなかったことに原因を求める。
では、沈約が憧れた体系とはどのようなものだったのか。それを解く糸口は、彼を語る際についてまわる、文字がもつ音に対する彼の並々ならぬ関心にある。これについては、仏教との関わりから中国語の音に目覚めたのだと指摘されている。発表者もその通りだと考えるが、仏教に関わる活動を通じて知り得た筈の、仏教に限定されない情報のなかに、彼が憧れた体系性があったのではないか。彼は幼い頃から知的好奇心が旺盛で努力する習慣があり記憶力も抜群であったという。とすれば、インドの書物に関する知識も、西邸をはじめとする場で訳経僧などから得ていたと考えるのが自然だ。その場合、具体的に想定され得る特定の書物があったのではないか、ということも含め、本発表では、沈約の欲した体系について考察する。
⑤「六朝期の詩歌認識について―「詩」と「歌」の間―」
佐藤 大志(広島大学)
江淹は夢に郭璞と出会い、かつて郭璞が貸し与えたという五色の筆を彼に返してから、詩を作る時に語句を得られなくなってしまったという。この鍾嶸『詩品』にみえる説話では、江淹の詩作の源は郭璞の貸し与えた「五色筆」であったとされている。とすれば、この説話の語り手は、詩は口頭で歌われるよりむしろ、筆で書かれるものと考えていたことになるであろう。
そもそも歌われるものであった詩歌が歌われなくなるのは、およそ後漢末から三国の頃からと考えられ、三国、西晋の詩のなかには文章だけではなく、詩を筆で書くという例が見え始める。例えば、劉楨「公讌詩」(『文選』巻二十)では、「生平未始聞、歌之安能詳」と芙蓉池周辺の風物の見事さを歌い尽くすことの難しさを言った後に、「投翰長歎息、綺麗不可忘」と、それを描くことをやめて「翰(ふで)」を投げている。この劉楨の「投翰」は詩や歌ではなく、賦や文による描写を念頭に置いたものであるかもしれないが、歌うことと筆で書くことが、この時期に近づきつつあったことは、この時期の他の用例からも窺い知ることができる。
では、三国期から六朝期にかけて、詩は既に口頭で歌われるよりもむしろ、筆で書きとめられるものとみなされていたのであろうか。もしそうであれば、そのことは六朝期の詩人たちの詩歌観や彼らの詩歌制作にどのような形で投影されているのであろうか。
このたびの発表では、魏晋六朝期の詩文における「詩」や「歌」に関する語句の分析を通して、当時の知識人たちが「詩」や「歌」を作るという行為をどのようものとみなしていたのか、またそこに「詩」と「歌」との間のどのような関係が見えてくるのかということについて考えてみたい。
⑥「達意の為の仮構―『文選』巻四十五に載せる設論三篇をめぐって―」
牧角 悦子(二松學舍大学)
『文選』には、あるテーマを論ずる文体として、「設論」・「史論」・「論」という三種を、巻を分けて載せる。このうち巻四十五「設論」には、東方朔「答客難」・楊雄「解嘲」・班固「答賓戯」を並べ、明らかに「史論」「論」と区別している。
「設論」に並ぶこの三篇は、対問の流れの中にあり、それぞれ「客」「賓」の批判に対して「主」が答える形を取る。これらは自問自答を「仮構(フィクション化)」することで、自己の思想を立体的に組み立てる構造となっており、一見「自慰」「自嘲」の表現のように見えながら、逆説的に強い自己主張に成功している。
班固の「答賓戯」が六朝の文論の原点であるという趣旨を前回の大会で報告したが、その「答賓戯」に終結する形の三つの設論の持つ特殊な言論空間の意味について、考えてみたい。
⑦「杜甫における陶淵明」
下定 雅弘(岡山大学名誉教授)
杜甫はリアリストである。既成観念の「隠逸」「隠士」などの眼で、淵明を見ていない。生涯の各時期に自らの境遇と重ね合わせつつ、淵明の人生と詩の核心を掴んだ詩を詠じている。
至徳二載、左拾遺に復した後、鄜州の家族と再会した時の詩「北征」で、子供たちを「學母無不為、曉妝隨手抹。移時施朱鉛、狼藉畫眉闊。生還對童稚、似欲忘饑渇」と詠じるのは、左思の「嬌女詩」を頭に置くとともに、陶淵明「和郭主簿」に「弱子戯我側、学語未成音。此事真復楽、聊用忘華簪」とあるのを意識しているだろう。
乾元二年、秦州での作「遣興五首」其三「陶潜避俗翁」は、「……觀其著詩集、頗亦恨枯槁。達生豈是足、默識蓋不早。有子賢與愚、何其掛懷抱」。富貴への未練があるし達観していないと淵明を批判する。この言葉は杜甫自身に向けたものでもある。
成都での作「遭田父泥飲美嚴中丞」に、「指揮過無禮、未覺村野醜。月出遮我留、仍嗔問升斗」と詠うのは、田舎親父に強く酒を勧められるのに閉口しつつも、その様子をほほえましく描いている。淵明が農民と飲む喜びを詠った詩が杜甫の脳裏にある。また「可惜」に「寬心應是酒、遣興莫過詩。此意陶潛解、吾生後汝期」(「可惜」)というのは、淵明の生き方を全く自分のそれに重ねている。
最晩年杜甫はしばしば故郷に帰った淵明を思う。大暦二年秋、五十六歳の作「復愁十二首」其四に「身覺省郎在、家須農事歸。年深荒草徑、老恐失柴扉」とあるのは、「歸去來兮辭」を意識し、「帰田」を果たした淵明への羨望の念をこめて詠っている。
⑧「謝霊運と廬陵王劉義真」
大上 正美(青山学院大学名誉教授)
謝霊運の生涯における第二の挫折というべき永初三年(422)の永嘉太守への左遷は、同時に山水詩の実現への契機にもなった画期的な体験であったが、それは武帝劉裕の後継をめぐる権力抗争故であった。さしあたりは劉裕の長子劉義符を立てる徐羨之・傅亮たちにとって、次子劉義真と、かれの近くにあった謝霊運らとが極めて危うい存在とみなされたのである。
この劉義真との関係をめぐっては謝霊運の生涯を論ずる際に誰もが言及してきたが、その事実の時系列として何点かの分かりにくいところがある。また、劉義真とのことを直接的にうたった詩文には謝霊運の思いがはっきりと見えてくるところと、見えてこないところとがある。今回はそのことをすこし整理して、今後の課題を探ってみたいとおもう。