●六朝学術学会 第22回大会 研究発表 要旨
(2018年6月16日土曜日 於:二松学舎大学)


①「『老子』における「言」と「道」の関係性」
初海 正明(栄光学園中学校・高等学校 国語科常勤講師) 

 本発表は『老子』中の「希言」及び「不言」への分析から「道」と言葉との関係を考察し、そして『老子』における「道」の新たな性格を明らかにすることを試みるものである。そのために「先行研究における言と道との関係性」、「希言と道」・「不言と道」、そして「言と道との関係性と新たな道の性格」という視座を設けた。
 まず「先行研究における言と道との関係性」では、岡阪猛雄、橋本敬司、吉川幸次郎の研究を挙げ、それらの研究の課題と本論文との関係を論じる。なお、すでに発表者の試みに通じることを『荘子』において考察していることから、鈴木達明の研究にも言及をする。そして「希言と道」では、「希言自然」から始まる二十三章を扱う。「二十三章には文脈の繋がりがあるか否か」、「「希言自然」への理解」、「「信不足焉、有不信焉」への理解」という視座から先行研究を分析し、そこで浮き彫りとなった課題を解決する新たな理解を提示する。
 続いて「不言と道」では、「不言之教」が記される四十三章を扱う。従来、他の章段と比較した際に先行研究は四十三章にて述べられている思想にあまり注目をせず、まして四十三章の特殊性を主張することなどなかった。しかし、先行研究とは異なり、四十三章は老子の思想の根幹が託された特異な章段である、と発表では結論づける。
 最後に「言と道との関係性と新たな道の性格」では、「二十三章「希言」と四十三章「不言」にて体現された道の言葉のあり方に違いが生じるのは、道と言葉との距離の差に起因すること」、「二十三章での表現方法から直接的には語られていない道の性格を明かすこと」、「歴代の『老子』記述者の思想世界の核心・拠り所」を述べ、全体を総括する。



②「前四史に見る夷狄列伝の展開」
三津間 弘彦 

 正史に見える夷狄列伝について、嘗て那波利貞「中華思想」(『岩波講座東洋思潮―東洋思想の諸問題』岩波書店、一九三六年所収)は、古今東西を通じて中国と対等の地位を有すべき独立国が世界には存在しないという中華思想による自然の趨勢と断じた。那波が指摘するように、歴代の正史において自国と外国との国家的対等の意識が表明されることは遂になかった。だが逆に言えば、正史の夷狄列伝は近代に至るまで王朝の超越性を歴史的に証明し、その正統性を担保する役割を担い続けたことを意味する。では、このような夷狄に関する正史の書法は、どのような過程を経て確立したのだろうか。
 その問題を検討するうえで、史書の家を成した『史記』、『漢書』は、夷狄列伝の原点を探る上でふさわしい存在となろう。そしてこの両者の背景を為す両漢という一つの帝国が変質、崩壊していくなかで『漢書』の夷狄列伝の書法を継承した『三國志』、『後漢書』がどのような形で夷狄を歴史的に位置づけたのかを検討することで、その確立の過程を見ることが可能となろう。
 そこで本発表では、まず前漢武帝の対外拡張と世界観の中から表れた『史記』外国列伝が、内外の別という儒教的秩序のもとに『漢書』において一つの集伝に再編される様子を確認する。そして、『漢書』の書法を継承した『三國志』夷狄列伝と『魏略』の佚文を通じて後漢後の世界観にもとづく夷狄の歴史的位置づけの変質を確認し、『後漢書』が、後漢後の世界観を継承しながら、四夷伝という書法によって夷狄列伝を完成させていく様子を明らかにする。




③「許懋の「封禅停止に関する建議」について」
洲脇 武志(大東文化大学 非常勤講師) 

 中国前近代の学問は官製の「太学」を始め、様々な場所において継承・発展していったが、六朝時代では主に「家族(門閥)」がその中心となり、「家学」と呼ばれて継承・発展していた。この六朝時代の家学については、既に吉川忠夫氏を始めとする先学によって研究されているが、発表者は従来注目されてこなかった隋の許善心とその息子である唐の許敬宗を輩出した高陽の許氏(許懋・許亨・許善心・許敬宗)に着目して調査を行い、この許氏一族のうち、許善心の祖父である梁の許懋について本会にて発表(第33回例会「許懋の学術とその時代」)を行った。その発表では、許懋の伝記(『梁書』巻四十 許懋伝)を中心に検討し、①許懋は「礼学」・「故事」に通暁することで政治に参与していった、②彼の学問は南斉・王倹の設立した「学士館」で培われた可能性が高い、③許善心・許敬宗の学問は許懋以来の学問を受け継いだものである、との指摘をしたが、実に許懋の伝記の半分以上を占める、「封禅停止に関する建議」(以下、「建議」と呼ぶ)について詳細に検討することができなかった。そこで本発表では、この「建議」を中心に検討する。
 梁の天監年間、武帝に会稽での「封」と国山での「禅」を勧める者がおり、武帝は儒臣を招集して封禅儀礼の検討を命じる。そんな中、許懋は封禅の停止を建議し、その結果、武帝は許懋の建議を受け入れて封禅の停止を決定する。
 本発表は、この「建議」について、始めに①後漢から唐に至るまでの封禅儀礼の変遷、②東晋から梁に至るまでの礼制の展開、以上二つの観点から検討を加えることで、「建議」の礼学における位置を確認し、更に③許懋が封禅停止を主張するに際して、どのような論理を展開しているかを検討することで、改めて許懋の学問と当時の学問の一端について明らかにしていきたい。



④「李賀の詩にあらわれる庾肩吾――「皇子」に唱和する詩人としての自己意識――」
遠藤 星希(法政大学) 

 本発表は、中唐の李賀が、太子時代の蕭綱を中心とする文人グループ、およびその一員としての庾肩吾にどのような眼差しを向けたかに着目することで、いわゆる「宮体詩」の中唐期における受容のされ方について、その一端を明らかにすることを目的とする。
 李賀は「還自会稽歌(会稽より還る歌)」という五言八句の古詩を作っている。この詩には「庾肩吾於梁時、嘗作宮体謡引、以応和皇子。及国世淪敗、肩吾先潜難会稽、後始還家。僕意其必有遺文、今無得焉。故作還自会稽歌、以補其悲」という自序がついており、侯景の乱後、避難先の会稽から「家に還った」庾肩吾の「悲しみを補う」ために作られた詩であることが示されている。詩中には、都の宮殿の荒廃ぶりが描かれ、太子の夢を見る年老いた庾肩吾が登場する。
 この「還自会稽歌」からは、これまで様々な裏の意味が読みとられてきた。たとえば、清の董伯音は、安史の乱で長安が陥落した際、賊軍から官を受けた者たちを諷刺した詩とみなし(『協律鉤元』巻一)、清の陳沆は、科挙の進士科を受験できず故郷に帰った李賀が自らを庾肩吾になぞらえた詩とみなし(『詩比興箋』巻四)、呉企明氏は、太子時代から順宗に仕え、永貞の革新で南方に左遷された王叔文・劉禹錫らの不幸を悲しむ詩とみなしている(『李長吉歌詩編年箋注』巻二)。
 上記の三説に共通するのは、詩の自序にいう「宮体の謡引を作りて、以て皇子に応和す」という庾肩吾の唱和詩人としての側面が無視されていることである。詩の第三句で、庾肩吾を「台城応教人」と呼んでいるように、庾肩吾が皇子と唱和していたという事実こそ李賀にとって重要だったのではないか。
 興味深いのは、李賀の別集の中に、皇子と唱和したと思われる詩が若干数見出せることである。また、「花遊曲」の自序には、寒食の日の「諸王」の宴会に同席した李賀が「梁の簡文の詩調を採りて」この曲を作り、妓女に歌わせた旨が記されている。こうした点からは、皇太子蕭綱の庇護下で唱和詩人の役割を担っていた庾肩吾を、同様の役割を期待された者として、李賀が自己に重ねあわせていた可能性を想定してもよいのではないか。このような自己意識の表出という面から「還自会稽歌」をとらえ直すことで、唐代を通じて批判されることの多かった「宮体詩」を李賀がどのように受け入れたのか、という点についても考える糸口を見出したい。



⑤「東晋中期の政局における皇太后の役割」
小池 直子(東洋大学 客員研究員) 

 拙稿「西晋恵帝期における皇太弟冊立と羊皇后」(『集刊東洋学』第116号,2017年)は,西晋代の恵帝期に頻繁に繰り返された皇太弟の冊立に注目し,皇太弟の存在と羊皇后の廃位とのあいだに因果関係があることを明らかにしたものである。考察の過程で,前漢から西晋にいたる古代中国王朝の帝嗣決定に,皇后と皇太后の存否がすくなからず影響していたことについても言及することができた。
 その内容は,およそ次のとおりである。皇后は子世代の男子が次の皇帝に即位することを以てはじめて皇太后となりえた。したがって,皇后の存命中は子世代の中から帝嗣を選ぼうとする力が強くはたらいていた。一方,亡き皇帝に皇后がおらず皇太后のみが存するという状況下においては,必ずしも崩御した皇帝の子世代から次皇帝が選ばれるとはかぎらず、皇太后は自分から見て子世代や孫世代,場合によっては同世代にあたる男子をも帝嗣として承認し,なお且つ自らの皇太后位を保持することができた。以上のことからみて、当時の人々は皇后および皇太后の存否の組み合わせによって,あらかじめ帝嗣選択の範囲を予測することができたと考えられる。とくに政治に携わる者は,この予測をもとに様々な局面における政治的決断を下していたのではないかと推察されるのである。
 では,東晋以降の帝位継承の場においても以上のような認識は共有され,機能していたのであろうか。紙幅の関係もあり,上掲の論文の中ではこれらについては全く触れることができなかった。本報告はこれについて論じるものである。とくに東晋中期の政治史,なかんずく東晋王朝存続の絶対的危機と目される桓温による帝位簒奪(未遂)の局面において,皇太后(褚太后)の存在が果たした役割を問い直してみる。



⑥「芳る祖国――陸機「悲哉行」の芳香表現をめぐって」
狩野 雄(相模女子大学) 

 陸機の「悲哉行」(『文選』巻二八)には芳香と音響の表現が繰り返し詠じられており、ある種の濃密さが感得される。発表者は陸機・陸雲の詩歌作品に特徴的に見出される芳りと響きの織り成す表現に注目して考察を行ったことがあるが(「芳りと響き――二陸の詩歌作品に見える感覚表現」『東方学』第一二九輯)、紙幅の都合で「悲哉行」に触れることができなかった。また、陸機の詩歌に見える谷と蘭の表現についての考察も試みたことがあり(「谷と蘭――陸機「贈潘尼詩」をめぐって」『二〇一七年度日本中国学会研究集録』、二〇一七年)、「悲哉行」にいささか論じ及んだ。
 「悲哉行」は『文選』に採られたこともあって、五臣注劉良の「客游して物に感じ、憂思して作る(客游感物、憂思而作焉)」と制作の動機を述べたのをはじめとして、多くの言及がなされてきた作品の一つであるが、いま改めて読むと、例えば、第九・十句「幽蘭 通谷に盈ち、長秀高岑を被う(幽蘭盈通谷、長秀被高岑)」の解釈をめぐってもそうであるが、いささか考察の余地が残されているように思われる。
 本発表では、芳香表現に注目しながら「悲哉行」について考えてみたい。西晋詩歌の「蘭」の詠じられ方に見られる南北差についても考察を加え、陸機自身や弟陸雲の作品に見える「根」の表現にも意を払いつつ、芳香表現の由って来るところや意味について考えてみることとしたい。この考察を通して、「悲哉行」第九・十句についての解釈についても私見を述べられればと思う。



⑦「晩唐の駢文の六朝文化との関わりについて」
加固 理一郎(文教大学) 

 晩唐の駢文作家には、「三十六体」と総称される李商隠・温庭筠・段成式がいる。彼らの駢文の制作と六朝文学・文化との関わりについて論じる。
 襄陽に隠棲した段成式を中心にして温庭筠らが文学集団を形成した。彼らの間では、墨や筆などの贈物に関連する故事を多数引用して構成した騈文の文体による書状が、取り交わされていた。その書状は、典故運用の巧妙さを競いあうとともに、遊戯的な性格も含まれたものであった。この書状の往還は、六朝斉梁の貴族の文学サロンで流行した隷事という競技に類似している。
 一方の李商隠は、彼らと騈文による書状を取り交わした形跡はない。それは、李商隠の騈文に対する態度が彼らとは異なっていたためである。李商隠にとって騈文は、社会的、実用的な目的のために使われる文章であった。そして、その態度は唐代の騈文作家一般と共通する。ただし、中唐には典故を多用しない簡潔な文体の騈文が公用文書に用いられていた。それに対して李商隠は六朝末期の技巧的な騈文に心惹かれ、同時代の傾向とは異なる騈文を作った。



⑧「劉孝標と劉勰との関係について」
榎本 あゆち 

 劉孝標と劉勰は、共に南朝梁代の文学界に特異な地位を占めている。孝標は博学・類書編纂・世説注を以て知られ、また勰はその文学論と文筆・仏典に関する知識を以て知名であるが、ともにその学才を通して官界に関わり、地位に恋々とすることもなかった。史乗に両者の交流を直接物語るものは全く見えないが、その生き方の共通性を見る時、どこか両者の間に接点があったのではないかとの「妄想」を抱く。この「妄想」が単なる妄想か否か、幾つかの間接的な状況証拠を開示し、確かめてみたい。孝標は青州三斉豪族集団の出身である。三斉豪族は、劉宋泰始年間北魏軍の青州征服の際、平斉戸として平城方面に拉致された。彼らは苛烈な環境に置かれたが、雲崗石窟開鑿中の曇曜の保護下生きながらえ、有る者は孝文帝の洛遷後郷里青州に帰還しまた有る者は北魏官界に進出、さらには孝標の如く南朝に帰還する者もいた。僧祐『出三蔵記集』目録部に曇曜の訳経に孝標が筆受として関与したという記録がある。そこに付記された記事を勘案するとその情報は孝標自身が『出三蔵記集』目録部の筆者劉勰に直接伝えたと考えられる。状況証拠の第一である。次に、南朝江南社会では二つしかない石窟寺院―南京郊外摂山棲霞寺千仏岩と浙江剡県石城寺大仏―建設に纏わる事実がある。この二つの石窟寺院はそれに少し先だつ北魏雲崗石窟開鑿に刺激され建設されたという見解が広く出されている。棲霞山千仏岩は南斉永明年間平原明氏の一員によって開鑿された。明氏は三斉豪族である。この点から棲霞寺は南朝の三斉豪族の拠点となっていたと考えられる。梁天監十年武帝の弟でかつ劉勰の府主だった臨川王宏の後援により摂山千佛岩大像の開鑿が行われたがそれに僧祐が携わっていた。僧祐・劉勰が棲霞山千佛岩を挟んで三斉豪族と関わっていたのである。一方石城寺大仏は南斉建武年間剡県の僧によって開鑿が開始されたが資力が続かず放置されていた。しかしこれも武帝の弟建安王蕭偉の後援を得て天監十二年に開鑿が再開され十五年に完成している。この開鑿の総指揮をとったのが僧祐であり、完成を言祝ぐ長大な碑文は劉勰によって書かれた。ある考古学者は、石城寺大仏の開鑿時期すでに引退し、剡県に近い東陽郡紫巌山に住んでいた劉孝標が石窟寺院のレイアウトなどのアイデアを僧祐に与えていたのではないかと指摘する。以上の諸点から劉孝標と劉勰は交流の機会があり、お互いの生き方にも影響を与え合っていたと考える。