●六朝学術学会 第23回大会 研究発表 要旨
(2019年6月15日土曜日 於:二松学舎大学)


①「「魯霊光殿賦」における「猨」「狖」「熊」「胡人」「神仙」「玉女」等
  ―先行する辞賦作品との違い―」
木村 真理子(東北大学大学院)

 『文選』巻十一、王延寿(一四三頃~一六三頃)「魯霊光殿賦」には、柱や天井に彫られた「猨」「狖」「熊」「胡人」「神仙」「玉女」等の彫刻が描かれる。多くの先行研究が彫刻描写に言及するが、「魯霊光殿賦」以前から描かれてきた「猨」「狖」「熊」「胡人」「神仙」「玉女」等を、「魯霊光殿賦」がいかに彫刻として描き出したかという点に注目した研究は見当たらない。
 例えば、「魯霊光殿賦」の「猨」「狖」は、「猨狖 椽を攀じて相い追う」(猨狖攀椽而相追)と七字で描かれる。
 「魯霊光殿賦」以前の辞賦の「猨」「狖」の最初の用例は、『楚辞』「九歌」「山鬼」に見える。「猨 啾啾として狖 夜に鳴く」(猨啾啾兮狖夜鳴)として、「猨」「狖」が鳴くさまを描く。「猨」「狖」の動作は、続く『楚辞』淮南小山「招隠士」にも見えるが、「九歌」「山鬼」と同じく鳴く様子である。
 司馬相如「上林賦」に至り、「猨」が四十四字で描かれる。「長嘯哀鳴」と、『楚辞』のように鳴く姿も描かれるが、「絶梁を隃え、殊榛に騰る」(隃絶梁、騰殊榛)と、跳ぶさまや、「垂條を捷り」(捷垂條)と垂れた枝にぶらさがるさま等が加わる。
 しかし司馬相如「長門賦」、王襃「洞簫賦」、班固「幽通賦」、馬融「長笛賦」は、『楚辞』に立ち返ったように、「猨」や「狖」の鳴く姿を描く。
 張衡「西京賦」の「猨狖 超えて髙援す」(猨狖超而高援)は、「上林賦」の中から跳ぶイメージとぶらさがるイメージを受け継ぎ、それぞれを「超」「援」と表現した。
 「魯霊光殿賦」は、「騰」や「超」のように直接的に跳躍を意味する語は用いず、「相い追う」という表現で、「猨」「狖」が跳び移ろうとするさまを描き、「攀」じる対象を「椽」にすることで建物の彫刻として描き出した。
 「熊」「胡人」「神仙」「玉女」の描写にいたっては、先行辞賦作品との違いはさらに顕著である。
 本発表では、先行する辞賦作品の「猨」「狖」「熊」「胡人」「神仙」「玉女」等の用例をすべて調査し、「魯霊光殿賦」では、どのような違いが生じているのかを考察する。



②「『幽明録』の世界――劉義慶の天命・因果観について」
武  茜(東京大学大学院)

 六朝期には、数十件から数百件の怪異事件を短い説話に纏める志怪書が隆盛に編纂されるようになった。志怪書に収録される怪異事件はさまざまあるが、これは編纂者が恣意的に集めたわけではない。渡邉義浩氏(『「古典中国」における小説と儒教』,汲古書院2017)をはじめとする学者は、『捜神記』についての考察を通じて、説話の選択や言葉遣いによって志怪書が編纂者の意図を反映しえるのだという見解を示している。
 こうした先学の成果によって、これまで深く検討されたことのない『幽明録』を今回の考察対象にすることが可能になった。『幽明録』は劉宋の王族劉義慶そして恐らくその幕僚たちが共に編纂した志怪書である。序文が欠けているために劉義慶がどのような意図に基づいて『幽明録』の編纂に取り組んだのかを明確にすることは難しいが、『幽明録』の説話を丁寧に読み解けば「人生有命」という儒家的な考え方が全書を貫くことが分かる。そして凡人の智慧では理解しがたい「天命」規則の会得者として巫、道士、道人がそれぞれの話に人の命数を算定できる役として登場している。しかし、この三者は死後の世界においては対照的な扱い方をされる。『幽明録』における死後の世界は「仏教教義」を優先する統治規則によって支配され、現世での行いが死後の審判結果に影響するからである。『幽明録』に見える劉義慶の因果観念はもちろん彼の仏教徒という身分に関わっているが、同じく「趙泰」の話を収録した『冥祥記』のバージョンと比べれば、『幽明録』が現世と死後の因果関係についての話を収録しているのは恐らく仏教の宣揚だけを企んでいたわけではないことがわかる。その背後には劉宋王朝が建国当初に面していた俗信問題への対策という政治的意図があることが読み取れるし、また仏教を信仰することで社会の安定を図るような考え方は何尚之と文帝の問答にも見られる。つまり、政治世界の上層部における文化政策の変化という時代背景が『幽明録』を育んだと考えられるのである。
 このように、本発表は『幽明録』をめぐる考察によって、劉義慶らが構築した『幽明録』の世界観とは如何なるものか、更にそれを生んだ当時の社会はどんな様相だったのかなどの問題を回答することで、『幽明録』の独自性を検討したい。



③「韻字の消長から見る南朝文学」
李 曌宇(東京大学大学院)

 詩賦などの韻文を創作する際には必ず韻字を踏むが、韻字の使用にあたっては、平仄や語句の組み合わせに鑑みて、用いることのできる字やその使用法が限られてくる。したがって、どのように韻字を用いるかという点に、個々の詩人の工夫を見てとることができる。
 韻字は詩や賦の最後の一字として用いられるため、二字や三字の連語において末字として使えることが要求される。しかし、すべての字が末字として使えるわけではないので、詩句の中でよく用いられる字が韻字とはならない場合も少なくない。また、四声による分類をしていなかった時期においては、仄声字も平声字とともに韻字として使用されていたが、四声の発見に伴い、韻字の使用の条件は厳しくなった。さらに、晋宋から斉梁陳隋にかけて、詩人の用いる韻部にも変化があり、宋詩と斉梁陳隋詩に使用された韻字を比べると消長が認められる。
 その中には、宋詩には見えるが、斉梁詩には見えない韻字も少なからず存在する。勿論、韻字の消長には複数の要因があり、たまたま前代の詩に使われていなかった、あるいは使われた詩が亡佚してしまっただけかもしれず、こうした例が必ずしも韻部の細分化の結果であるとは限らない。しかし、四声による区分や韻部の細分化によって、韻字が増えたり組み合わせが多様化したりする場合も確かにあった。謝荘・沈約などの韻部を細分して用いた詩人の作品において、使用された韻字の数量や用い方はほかの詩人より遥かに多い。これらの韻字の用い方によって、各詩人の独自性が浮き彫りとなる。また、謝氏一族、陸機・陸雲、庾肩吾・庾信の韻字の用い方には同族性が見受けられ、同じく南方出身の詩人の作品には地域の影響も窺うことができる。
 本発表では斉梁期において消長した韻字に注目し、それらの韻字の詩賦における用いられ方を検討することによって、南朝文学の特質を考察したい。



④「王倹の礼学―穆妃の葬喪儀礼への対応を中心に」
洲脇 武志(愛知県立大学)

 王倹(字は仲宝、謚は文憲、劉宋・文帝の元嘉二十九(四五二)年から南斉・武帝の永明七(四八九)年まで)は、当時の名門貴族である琅邪の王氏の出身で、劉宋から南斉にかけて活躍した政治家・文人である。王倹は宮中の蔵書を整理して、図書目録である『七志』や『元徽四部書目』を編纂したことで特に著名であるが、南斉の高帝(蕭道成)・武帝(蕭賾)の側近として、褚淵とともに南斉の建国とその政治制度の制定に尽力している。さて、王倹は南斉建国の功臣であり、南朝を代表する図書目録である『七志』の編者であることから、南朝の政治・学術を考察する上で欠かすことの出来ない存在であり、王倹の政治・学術における活動は、南斉のみならず、その後の南朝や北朝の政治・学術を考える上で看過できない影響があったと考えられる。しかし、王倹自身が早くに没したこと(三十八歳で没)や南斉がわずか二十三年で滅んだこともあり、王倹に関する考察は少ない。
 そこで本発表では、王倹の活動のうち、高帝の建元二(四八〇)年に薨去した穆妃の葬送儀礼に対する対応を中心に取り上げる。穆妃(裴惠昭)は、当時、皇太子であった蕭賾(のちの武帝)の正室で、文恵太子(蕭長懋)と竟陵王(蕭子良)の生母でもあった。『南斉書』礼志下には、穆妃の葬喪を執り行うにあたって様々な疑義が生じたこと、王倹がそれらの解決に主導的な役割を果たしたことが記されている。本発表では王倹の穆妃の葬喪儀礼への対応を手がかりとして、彼の礼学の一端を明らかにするとともに、王倹の礼学の伝播についてもいささか私見を述べたい。



⑤「六朝貴族制に関する一試論―『世説新語』を素材として―」
福原 啓郎(京都外国語大学)

 中国史の時代区分論と連動して、六朝貴族制をめぐり、貴族の本質は名望家か官僚かなど、論争が繰り広げられた。その六朝貴族制に関して、『世説新語』を素材として、検証したい。『世説新語』は史書ではなく、逸話集であるため、史料としての扱いが難しいが、史書からは窺えない六朝貴族制の特徴を見出そうとするいくつかの先行研究があり、私自身もその驥尾に付して、かつて「西晉の貴族社会の気風に関する若干の考察 ―『世説新語』の倹嗇篇と汰侈篇の検討を通して―」(福原『魏晉政治社会史研究』所収)を著し、その結論として、汰侈篇中に見える逸話の多くは「豪」(豪胆)という名声を求めるための私的な「散財」競争を描いているが、それは本来「豪」という名声の対象となった公的な「散施」(賑恤)が本末転倒した現象であったと論じた。
そして、最近取り組んでいた「魏晉時代の「郷里」」では『三国志』を中心とした魏晉時代の史書に見える「郷里」とその類語を分析したが、その一環として、『世説新語』における人名に冠する「本郡」(本貫の郡国)名、たとえば「琅邪王戎」の「琅邪」、の問題が浮上した。『世説新語』では人名に冠する「本郡」名が全1130条中わずか11条にしか見えず、史書と比べて極端に少ないのである。その理由は単に編集方針の結果であろうが、東晉以降における「本郡」の「商標」化(王仲犖『魏晉南北朝史』)と関連するとするならば、東晉以降における六朝貴族制の変質の一端が現われているのかもしれない。拙稿では十分に展開することができなかったこの問題について検証したい。



⑥「唐詩に見る六朝詩の受容―張九齢の「照鏡見白髪」詩を中心に」
矢嶋 美都子(亜細亜大学)

 唐詩に名詩名作が多いのは、「詩」(近体詩)が科挙の試験課目の一つだったので、多くの人が近体詩(詩形や韻律の決まりが厳格な新しい詩の形)を上手に作る努力を重ねたことが背景にある。初唐の詩人は六朝詩などから詞藻を採り近体詩の決まりに従って作詩(六朝詩受容の一段階)し、後の人はその中から名詩と目される詩をお手本に作詩に励んだ(六朝詩受容の第二段階)。こういった詩の作り方を私は「唐詩の本歌取り」と称するのだが、本発表は、後の多くの詩人に官僚人生の哀歓、立身出世や不遇を詠う際に本歌取りされた張九齢の「照鏡見白髪」詩について、この詩が古来の主に六朝詩の「鏡」や「老いを嘆く」詩を集大成した名作であることを述べる。詩の内容は、若い時は青雲の志を抱くが果たせぬうちに白髪頭の老人になってしまう、というテーマを詠じており、見所は前半の「青雲」と「白髪」の洒落た対比と後半の「影」(鏡に映った姿)と形(鏡の前の自分)が憐れみあう、と老いの嘆きを少しユーモラスに擬人化した表現。
 まず詩題の「鏡に照らして白髪を見る」という発想の由来について、鏡を見る理由、見ての感慨の変遷を探求すると、六朝の詠物詩に「鏡」に関する詩(主に女性の持ち物、化粧の様子など)があり、老いを嘆く西晋の陸機の「詠老」詩もある。この老いを嘆く理由を見ると、若さが失われた嘆き(詠物詩の「鏡」詩の女性は天子様の寵愛を得られなくなる)、左思の「白髪賦」(白髪は容儀を汚すから抜く―六朝の美意識、に対する白髪の主張―白は美しく四皓は漢を補佐した、反論として甘羅や終軍は緑髪だからではなく才能で用いられた等)、顔之推(梁→北斉→北周→隋)の「古意」詩の、老いて(白髪になり)国家の衰亡の際に手を拱いているしかない嘆きなどを経て、張九齢より少し先輩の則天武后朝で活躍した四人の「覧鏡」詩へと続く。「照鏡見白髪」詩は「青雲」(若さと立身出世の象徴)と「白髪」(老いと不遇の象徴)をキーワードに本歌取りされたのだか、「白髪」の対になる語、「白首」と「玄髪」、「紅顔」と「素鬢」等などの詩を検証しつつ「白髪」と「青雲」が結びつく過程も見る。



⑦「「拒まれた女」中国古代篇―杜伯の故事をめぐって」
戸倉 英美(公益財団法人東洋文庫研究員)

 英国の学者ペンザーN.M.Penzerは、インドの説話集『カターサリットサーガラ』の英訳(The ocean of story : being C.H. Tawney's translation of Somadeva's kathāsaritsāgara (or Ocean of streams of story) :1923)に附したノートにおいて、「愛を拒まれた女たち」という主題を取り上げている。『旧約聖書』のヨセフとポティファーの妻の故事のように、男性に求愛し、拒絶された女性が、怒りに駆られ、相手の男性を窮地に陥れるというモチーフが世界各地にみられるというのである。ペンザーは、古代エジプトの物語、ギリシャ悲劇、ジャータカ、アラビアンナイトなどから多くの例を挙げ、このモチーフは世界中のほとんどすべての物語集に受け入れられている、と述べている。では中国ではどうだろうか。『金瓶梅』の冒頭潘金蓮は、夫武大の弟武松に恋心を燃やし、夫の留守中言い寄るも、節操堅固な武松は心を動かさない。金蓮は恨みを抱き、帰宅した夫に武松が自分に言い寄ったと訴える。ここまでの行動は世界各地の拒まれた女たちとほぼ同じ。違うのは夫が「あいつがそんなことをするはずがない」と取り合わないことである。ペンザーの挙げる物語の中で、権力者である夫は、妻の言葉を真に受け、男性を獄につなぎ、あるいは辺境に放逐し、様々な試練を与えるのである。
 中国にはこの型の物語はないのだろうか。探していると思いがけないところからぴったりの例が見つかった。『墨子』明鬼篇は、鬼の実在を立証するため、杜伯の故事を引く。周の宣王の臣杜伯は、罪なくして宣王に殺されるが、三年後、諸侯を集めて狩りをする王の前に現れ、矢を放って宣王を殺害する。この故事は『国語』周語などにも引かれるが、杜伯が殺された理由はいずれも「不辜」とするのみである。ところが『墨子』の注釈の中に、殺害の理由を次のように記述しているものがあった。「宣王の妾女鳩、杜伯と通ぜんと欲するも、杜伯可かず。女鳩反って之を王に訴え、王、杜伯を焦に囚う。…之を殺す。」この記述の出処は顔之推『冤魂志』であり、同書にはもう一例、求愛を拒まれた女性が、男性から襲われたと讒言し、男性を死に至らしめる話が載っている。そして管見の限りでは、中国において拒まれた女性が男性に復讐を遂げる物語はこの二例しか見つからない。
 本報告はこの種の物語の広がりを概観し、『冤魂志』の二例には他国のものとは異なる特徴があることを指摘するとともに、六朝期に確かに存在した物語が、なぜその後大きく発展しなかったかを考えたい。